政府とその政策

ミャンマーは「近くて遠い」国と言えます。
元々はビルマと呼ばれ、「ビルマの竪琴」や仏教のイメージなど、日本人にとって非常に親しみ深い国だと言えるでしょう。
しかし実際には、情報や貿易や人の行き来などが制限され、なかなか正確に掴むことができない国でもあります。
「軍事政権」という負のイメージもあるかもしれません。

しかし昨年、ミャンマーの国内事情が大きく変わったことで、一転、世界の注目を集める「熱い国」になりました。
ミャンマーでビジネスを始める上で、ミャンマーの歴史や現政権の政策を知ることは大事なことです。

ミャンマーの歴史

1948年の独立以来、ミャンマー(ビルマ)では、いくつかの軍事クーデターがありました。中でも大きなものは、1948年、1962年、1988年に発生し、憲法も都度書き換えられて今日に至っています。

1988年に誕生した現軍事政権は、国内の混乱を収束させるために国家法秩序回復評議会を設立し、社会治安において一定の成果を上げました。国家法秩序回復評議会は1989年、国名の英語表記を「Union of Burma」から「Union of Myanmar」に改称し、日本政府もそれを承認して、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めました。

その後は限定的な選挙も始まり、著しい内乱や圧政も発生しなかったものの、完全な民政化に至らないまま、20年以上は事実上の鎖国状態にありました。

情勢が動いたのは、2007年。軍出身のテイン・セインが2007年10月首相に就任すると、軍政主導の政治体制の改革が開始され、2008年の新憲法案についての国民投票が実施・可決され、民主化に舵が切られました。2010年11月には新憲法に基づく総選挙が実施され、翌2011年3月にテイン・セインがミャンマー大統領に就任。同月、国家平和発展評議会 (旧国家平和発展評議会) が解散され、権限が新政府に移譲されたことで、大きく民主化が進みました。

これを機会に、経済面でも国外との交易が拡大していますが、法律や金融などの整備に時間が費やされ、本格的に経済が「開国」するのは、2013年の秋以降であると言われています。まさに今がその時であり、アジア最後のフロンティアとして、今後も注目を集めることは確実です。

ミャンマーの開国

ビルマは1954年11月の平和条約締結以来、日本と友好的な関係を築いてきた。特にネ・ウィンは日本の政治家に根強い親ビルマ的空気を敏感に察知し、「親日国ビルマ」を演出することに長けていたことは現代日緬関係史研究における常識となっている。このことがBSPP時代の巨額の二国間援助に影響を及ぼしている。欧米諸国とは対照的に、1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認した他、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けてきた。ただし、人道的な理由かつ緊急性がない援助は、2003年から停止されている。ビルマの人権問題や民主化問題に対し、日本政府は軍事政権と民主化勢力の双方に、“対話による解決を粘り強く働きかける”方針を採用しており(長井健司射殺事件に関する福田康夫の発言「直ちに制裁するかどうかはもう少し見極めてから」など)、これまでに幾度か軍事政権に働きかけを行ってきた。しかし、これまでのところは芳しい成果が上がっていない。ビルマの軍歌には軍艦行進曲の旋律を流用したものがあり(但し、歌謡にも日本の旋律を流用した物が見られる)、ビルマ軍部の親日的傾向を示す根拠として提示されることがある。
日本では東京の高田馬場に日本国内最大の在日ビルマ人コミュニティが存在し、ビルマ料理店やビルマ語教室などが集中している。在日ビルマ人は約8千人(2010年)。
2012年2月、日本政府はヤンゴン郊外のティラワ港経済特別区の上下水道、道路、光ファイバーケーブル、次世代電力網といった最先端のインフラ整備を請け負った。実際の開発はミャンマー側が日本の企業を誘致し行う。ミャンマー側もかねてから日本に開発をゆだねたいという意思をテイン・セイン大統領が示していた。これにより、立ち遅れていたミャンマー経済の大きな飛躍が期待される[27]。

ミャンマーの外交政策は、平和共存5原則に基づいています。 5原則の本質はミャンマーの主権と領土保全の尊重に載っており、国家間の平和的な国際問題を解決する。ミャンマーは近隣諸国との友好関係を優先し、良き隣人としてそれらを扱っています。近隣諸国との境界の画定の問題は控えめで知的な方法で処理され、解決された。